創立者 中西郁夫の足跡
「自分が八方塞がりになってぼろぼろになってしまったとき、その解決の糸口は他人を助けることに協力することである」。これは、中西郁夫が手帳に書き残した言葉です。
自身がLEADERを務めた代々木八幡の教会でスクールを開校したのは昭和51年のこと。以来、巣立った留学生は2,000人を数えます。留学生には「日本語を詰め込む」のではなく「日本」を教え、そして、日本人には異国で学ぶ留学生の実像を伝える。自らが架け橋となり、留学生を日本に受け入れ、社会に溶け込ませることに奔走した30年でもありました。時には留学生を寄宿させ、時にはビザの手続きのために海を渡る……その強い信念、情熱、慈愛に満ちた行動は、留学生にとっての<兄>であり<親>のような存在にも例えられます。
しんしんと冷え込む、中西郁夫の旅立ちの日には、悲報を知ったタイや台湾、韓国の卒業生が「すぐに帰る!」と駆けつけ、告別式に参加しました。「近くて遠い国の距離を近づけたい」と懸命に生きた彼の思いは、今もアジアの各地でしっかりと根付いています。
中西郁夫 略歴
昭和21年 | 東京生まれ |
昭和44年 | 独協大学外国語学部卒業 卒業と共にイスラエルに渡る |
昭和45年 | 日本語教師開始 |
昭和51年 | 青山スクールオブジャパニーズ設立 在日ビジネスマンに対する日本語教育及び東南アジアからの 留学生に対する日本語教育外国人が作る日本語新聞 「横めし新聞」発行責任者 青山学院大学国際部非常勤講師 |
昭和53年 | 日本語教師養成講座開講 |
昭和55年 | 日本語学校連絡会委員 |
昭和58年 | 国際交流基金スライドバンク教材作成委員 文部省研究指定校 日本語学校協会設立準備会 |
昭和61年 | 城西大学非常勤講師 |
昭和62年 | 国際文化教育センター顧問 日本語教育学会 評議員 |
昭和63年 | 海外協力事業団講師 |
平成1年 | 日本語教育振興協会設立、同協会設立に寄与 |
平成7年 | 日本語就学生作文コンテスト委員会委員長 |
平成8年 | 城西国際大学助教授 |
平成19年 | 心不全のため60歳で永眠 |